科学の教室/中川浩編集長のwikiやふろく画像は?

2019年4月25日(木)に「奇跡体験アンビリバボー」が放送されます。

今回のテーマは「科学の教室」の中川浩編集長についての内容が紹介されます。

中川浩編集長は,以前より編集長を務めており「学習」200万部発行の月刊誌も務めておりました。

中川浩編集長は,廃刊寸前だった「科学の教室」をどのようにして人気を得る仕組みはなんだったのかについて紹介したいと思います。

また,中川浩編集長のwikiやふろく画像についても調査しましのでご覧頂ければ幸いです。

中川浩編集長wikiや放送内容は?

奇跡体験アンビリバボーにて放送される主人公の中川浩編集長のwikiや番組内の放送内容をまずはお伝え致します。

wikiプロフィール


名前:中川浩(なかがわひろし)

生年月日:不明

出身:不明

職業:「学研」編集長

結婚:既婚

子供:3人(男の子)


 

生年月日や出身,学歴などについては情報がありませんでしたので分かり次第追記致します。

また、お子さんがいらっしゃるという事なので、結婚はされているのではないかと思います。

 

放送内容は?

テーマ▼ 日本の礎を作った熱き男たち!子供たちにワクワクを!さらに未来の日本のために慣習を破るキテレツ発想で次々と障壁をクリア!奇跡の300万部超え!

放送中身

1960年の高度経済成長期、ある出版社に、科学がこれからの日本をつくっていくと信じて、雑誌『科学の教室』の編集に奮闘している部署があった。しかし、雑誌は全く売れず、毎月廃刊が検討される崖っぷちの状況だった。そんな中、新編集長に抜擢されたのが、200万部の大ヒットとなった月刊誌『学習』の編集長を務めていた中川浩。彼は『科学の教室』編集部に来るなり、誌面に目を通すと雑誌を机に叩きつけこう言い放った。「まったく面白くない!」と。これまでのやり方を全否定したのだ。  こうして中川による厳しい改革が始まった。部員たちが寝ずに書いた企画書も「お前たちは頭が固すぎるんだよ」と平気でボツにする。反発する者もいたが、雑誌が売れるためならと我慢。しかし売り上げは一向に伸びず、編集部員たちの不満と不安は限界に達した。  それでも中川だけは腐らず次の手を考えていた。そしてついにある日、庭で遊んでいた息子達を見てひらめいた。急いで行動に移そうとする中川だったが、そこには大きな障壁がいくつも立ちはだかる。そんな中、部員たちの姿勢にも思わぬ変化が…。  たったひとつのひらめきで崖っぷち科学雑誌が300万部の大ヒット作へと大変貌!そのアンビリバボーなアイデアとは!?

引用元 Yahoo!テレビ

 

「学研」が初めて科学雑誌を誕生と休刊への道のり

当初の科学雑誌はどのような思いや売り方をしていたのか?

また子供達にどのように伝えようとしたのか?について紹介したいと思います。

科学雑誌誕生秘話

1957年の1月に「学研」が科学雑誌としては初めて誕生させる。

当時の学研の創始者でるある社長の古岡氏はこう語る。

資源の少ない日本は、科学技術で世界に羽ばたく必要がある。
未来を担う子どもたちにとって、家庭教育においても科学雑誌が求められる時代となった。

 

日本の情勢は当時戦争敗戦後で、これから発展していかないといけない時期であり教育立国を掲げていた。

吉岡氏は「科学」を未来の日本を背負う子供達に伝えたい思い一心でした。

当時人気のあった科学雑誌は「子供の科学」という物がコアな子供達に人気がありました。

ですが,本来の目的は違く,興味のある子供達だけでなくまだ知らない子供達にも科学を知って欲しかったそうです。

とにかく、誰もが見やすい雑誌を作ろうと漫画家などを採用しました。

雑誌の中身だけでなく発売当日は店頭にも出向き試行錯誤をしたそうです。

「売れ行き」や「並べ方」,「しっかり向き合っているか」などに注意を払いチェックを行ったそうです。

売れない現実により遂に・・・

問題はいくつかありました。

  • 市販流通が弱い
  • 宣伝能力や化学雑誌を売る為の方法が無かった

「小学生のたのしい科学」については2号で廃刊に陥ってしまいます。

 

その後,「小学生のたのしい科学」を上級と中級で別けて出版します。

中級→小学3年生4年生に向けの科学雑誌
上級→小学5年生6年生に向けの科学雑誌


しかしながら,学年別に作成するのも初めての為試行錯誤状態に陥ってしまいます。

売れ行きも変わらない状態が続いてしまいました。

迷走は続く中ではあったが,社名を変えてはどうか?という会議内での案に
子会社である「立風書房」名前に社名を変更しました。

この際に科学雑誌「科学の教室」の方針が変わるのです。

以前とは違い,文部省の学習指導要領に沿ったものへとなったのです。

 

二回目の休刊へ

一回目の休刊から社名や雑誌の方針を変えても売れない現実は続いてしまいます。

書店での努力などを再度実行してみたが・・・遂に二回目の休刊になってしまう事に。

少し諦めかけていましたが1959年頃に書店ルートを一切行わず,学校直販に転換しました。

また,中級,上級だけではなく,初級を入れ3誌で3回目のスタートを切ったもののまた売れない現実が・・・

本当に諦めかけていた時にあの人物が登場するのでした。

救世主?中川浩編集長

中川浩は当時は超エリートの学研の稼ぎ頭と言われ「学習シリーズ」の「三年の学習」や「四年の学習」の編集長をしておりました。

しかし,このまま廃刊になるのをどうか避けたい社長の思いもあり,中川氏は科学誌部門の編集長になります。

中川浩編集長抜擢で危機を抜け出せるか?

まず、中川浩氏が現状の状況を確認する為3誌を眺めるとこのような事を言ったそうです。

これは科学雑誌ではない・・

記事が同じでもその記事に相応しくわかりやすい言葉遣い、子供のことを思い工夫された文章になっているか?

タイトルや導入部も子供たち読者が『面白そうだな』と興味を引き立てられる内容なのか?

 

中川浩氏はこのような思いから,3誌から6誌に変更をする意思を見せます。

1962年の4月号は学年別の6誌体制へに変更になります。

これで売れるようになるのか?

編集者達で当時理科の教育の力のあった学校の先生に目を通してもらうなど,各年齢の能力や限界を超えていないかなどのチェックをして発行するように努力をされたようです。

しかし・・・6誌体制にしても売れない現実が・・・

中川浩氏が編集長として体制を変えても売れない。本当に廃刊になってしまうのか?

 

快進撃が始まる

中川氏は想い悩んでいる時「フッと」思い返します。

それは自分自身が子供も時の出来事です。

タナゴを瓶に入れて持ち帰ったり,トンボなどの虫を触ったりして遊んだり、理科の実験ではウサギの解剖をしたりと小学生の時の自分を思い返したのです。

自然の素晴らしさや実験などで間近で見た時の感動や実感は科学雑誌だけ伝えるのは限界があるのでは?と感じたそうです。

そこで実現しようとしたのが科学雑誌と実験用具(ふろく)です。

しかし・・・まだ問題が出てくるのです。

2の問題と流通はどうなる?最後の難関突破

科学雑誌と実験用具という組み合わせを作り上げるにはまず2つの問題がありました。

①定価の中でどうやってふろくを作るのか?具体的にサンプを作るなど

②購入する人にどうやって付録付きの雑誌を届けるのか?

 

当時の雑誌の価格は120円で販売されており,付録の原価は約30円程でした。

  • 定価120円のものを80%で代理店へ
  • 人件費や流通費を引くと雑誌と付録にかけられる費用は70円程
  • 雑誌を40円で仕上げて,付録の原価は30円で作成しないといけない。


付録に付けたいと考えたいた物は拡大鏡や虫眼鏡、温度計や天秤、試験管、リトマス紙、豆電球などを考えていたそうです。

しかし,30円では到底無理だと言う事が分かっていました。

 

中川氏のひらめき

子供たちと遊んでいる時にひらめいたそうです。

小さな虫メガネを片手にどっちが早く紙に火が付くかと遊んでいる姿を見て思ったそうです。

思わず中川氏は質問をしたそうです。


どこで買ったのか?

すると,子供達は駄菓子屋さんで買ったと答えてくれたそうです。


 

それからというと中川氏は普段のデスクワークではなく,近所の駄菓子屋さんを巡り,店主や卸している業者などを聞き出す事が出来たそうです。

また,扱っている商品の種類や原価なども聞き出す事が出来きると同時に内職をする人達の存在も知る事で,本来やりたかった試験管やリトマス紙なども付録に付けられえるのでは?と思ったそうです。

これなら30円という原価で且子供達が楽しめる付録を付けられると感じたそうです。

 

流通と運搬についての問題

そして二つ目の問題として挙げられていたのが雑誌と付録をどのように購入した人に運ぶのか?

当時は特運という制度で「学研」は運んでもらっていたのが現状。
ですが、特運で運ぶには規制があり,紙製品以外の物は付けないという条件があったのです。

紙製品以外での付録を提供する事が前提なので国鉄は許してくれるわけがありませんでした。

現在の配送では当たり前となっている長距離トラックも同時は始まったばかりでなかなか難しい問題もありました。

すると配送関連部門の小林氏に相談をしたそうです。

雑誌と付録を配送運搬をする為の方法は現段階では特運でする以外考えられませんでしたが・・・小林氏から驚きの解答がありました。

国鉄の特運を辞めてトラックで配送をしてもらうという選択でした。

今後のトラック輸送の発展を見越しての決断だったようです。

配送料も思っていた以上に特運よりも安く抑える事が出来たようです。

よし!これで付録制作と配送の問題が解決されたか?と思いきやまだ突破する壁が待ち構えていました。

常務の壁

常務に雑誌と付録付きを発売する事業計画と配送を全てトラックに変更する旨を伝えると常務はこのような課題を中川氏に与えました。

それは全学年3年分の付録プランを作れという指示でした。

なぜそのような指示をしたのか?

常務にはこのような思いが合ったようです。

2,3カ月のプランでは業者や作業をする為のコストを考えると本気になってくれない!だから3年計画のプランを出せば本気度が伝わるというような発言をしたそうです。

中川氏はこの3年計画を立てるプランには時間がありませんでした。

編集部員達に内容を伝え実行したのです。

この時の付録のプランには電磁モーターや顕微鏡、カメラなどもあったようで到底30円で作れる付録の内容ではなかったようです。

そして1ヵ月の間で3年分のプランを作成したのでした。

社長の壁

中川氏は社長に雑誌と付録付きを説明したのです。

なぜ社長の壁を重く感じていたのか?

当時の社長は発言が重かったようで、ダメと言う一言でそれを覆すのは難しいのを知っていたからです。

しかし社長から出て来た答えは・・・

面白そうじゃないか、やってみるか!の一言だったようです。

中川氏は秘めていた気持ちが開放されたようです。

販売開始

いよいよ発売が決定して付録の準備や編集体制を整えました。

結果はどうなったのか?

最初の付録内容

 


1年 てんき しらべすたんぷ せっと
2年 風しらべジェット機
3年 水さいばいセット
4年 ポンプセット
5年 解ぼう器
6年 金属鉱物・岩石標本セット


付録画像はこちら⬇︎

 

発行部数は各誌2万部に設定をしたようです。

 

販売状況

販売開始から間もなく予想をしていた数を越える数が代理店から注文が来たそうです。
失敗を繰り返して掴んだ結果が初めて出た喜びでした。

「科学」の魅力と付録には子供たちは心を奪う感動を与える事が実現したのです。もちろん,大勢の先生方も支持してくれました。

2万部と決めて発行していた事もあり,次号の製作にも既に取り掛かってはいたものの,全国各地から追加注文が多数あり,増刷を決定したそうです。

6月号で2倍、
8月号で3倍
11月号で10万部を突破しました。

しかしながら当時は科学の雑誌が売れる事で編集の方々にも疲労の色が見えていたようです。

 

そして遂に・・・発行から約2年半で175万部を達成したのです。

本当に失敗が実った結果だと感じます。

その後社長は編集に関わった人達と会食をして際に全員に「祝175」と入った万年筆をプレゼントしたそうです。

科学の教室/中川浩編集長のwikiやふろく画像は?まとめ

いかがでしたでしょうか?

科学の教室には現在に至るまでたくさんの失敗や苦労、思考や行動が詰まった歴史があることにとても感動しました。

一度は小学生の時に付録を楽しみしていた方も多いのではないでしょうか?

子供にとって大切なのは体験させる事が一番なのかなぁと思いました。

是非奇跡体験アンビリーバボーも拝見してみて下さいね。

最後までご覧頂きありがとうございました。

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